過去、現在そしてこれからの春吉の魅力を語るコラム
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晴好大通りバックナンバートップ>第11回

記憶にとどめておきたい
エピソードがある。
春吉にはこんな話があるそうだ。
過去、現在そしてこれからの春吉の魅力を語るコラム
〜 野口さんからのメール 〜
先日、実行委員会宛に晴好のホームページの熱心な読者という方からメールを頂きました。博多区麦野にお住まいの野口福雄さんという方です。
昭和46年に失明され3年前から地元のパソコン教室で勉強され、音声ソフトでパソコンライフを楽しまれているそうです。現在は鍼灸業をされながら晴好のホームページを毎月楽しみにされているそうです。
頂いたメールを拝見し、昔の春吉の情景が目に映るようで感動し、そのまま掲載させていただきます。野口様ありがとうございました。

ひまわり
晩は。
小生は、野口福雄ともうします。
昭和12年春吉に生まれ、同36年まで二番町に住んでいました。
HPを、懐かしくてよく閲覧させてもらっています。現在は、博多区の麦のに住んでいます。小生の幼少の事を書いてみました。どうぞ、お読み頂ければ幸甚です。

るさとと言いますと、皆さんは、小学校の頃歌った「うさぎおいしかの山、子鮒つりしかの川」の唱歌を想いだされるでしょうね。この詞は、作者が長野県のある山村の自然と両親や友達への気持ちをよんだものと言われています。
歌詞と言い、曲と言い日本の想い出の唱歌のナンバーワンの地位を譲る事はありません。自分が、好きな大人の歌う歌は、森繁久弥が歌った「銀座の雀」です。
「たとえどんな人間だって 心のふるさとがあるのさ俺には それが この街なのさ・・・」と言う歌です。

分が、生まれ育った所は、福岡市のど真ん中で、元福岡県庁があった南側の春吉(はるよし)二番町と言うところです。現在の国体道路の那珂川にかかっている春吉橋から西へ300メートル歩くと三光橋がありますが、その区間を春吉一番町と言います。拡幅工事があるまでは、5メートル程の道幅しかありませんでした。那珂川にかかる春吉橋の直ぐ下流の旧春吉橋は、今も昔も川の水量が増すと橋は水につかって歩くと足を取られることもあります。
この一番町には、樋口小鳥屋・山下酒店・亀井こんにゃく屋・長沢かつら屋・堀彫刻屋・日下部文具店・松田内科・遠野理髪店・イビシ醤油屋などが、狭い道を挟んで軒を並べてありました。

の南側の横丁を二番町と言います。国体道路は、昭和23年に、第3回国民体育大会が福岡市で開催された時、祇園町の馬場新町から大濠公園まで現在の幅員に拡張して造られた道路です。陸上競技場は、黒田五十二万石舞鶴城あとに平和台陸上競技場として造られました。国体道路が出来た時は、単に土砂を敷きつめてバラスで固めたデコボコ道でした。それがアスファルトで舗装されたのは昭和28年から30年にかけての期間だったと思います。

分の出身地を聞かれて、福岡市ですと言うのはいいのですが、福岡市はどちらかと聞かれると春吉です、と応えるのに抵抗を感じていました。
昭和32年に、市川房江・紙近市子(かみちかいちこ)・課藤しずえさんらの熱烈な売春禁止運動によって売春防止法が成立し、いわゆる赤線が設けられた為、それまでは売春地域は新やなぎ町とか大浜が有名でしたが、赤線地域が出来てからは春吉が誰が言うともなく口の端につぶやかれるようになりました。
そこが、自分の出身地と思われるのが嫌だったからです。
しかし、戦前から戦後のしばらくまでは、二番町には格子戸の玄関のついた芸者さんの置屋が三軒ほどありまして、毎日朝から晩まで 雀の学校よろしく、地元の民謡の正調博多節とか黒田節とか長唄・小唄・どどいつなどを三味線の伴奏にあわせて練習していました。
それを聞いていると、子供ながらも平和な一時の安らぎを感じたものでした。
彼女たちは、普段の時は動きやすいありきたりの洋服を着ていましたが、外出する時は、きれいにお化粧をして和服にきりっと博多帯を締め人力車やリンタクに乗って颯爽と出かけていました。

ころで、皆さんはリンタクをごぞんじでしょうか?
リンタクとは、オートバイの中にサイドカーと言うのがありますね。これは、オートバイの右側に屋根の無い一人分の座席をとりつけたものです。それを真似して、自転車の右側に屋根付きの人が一人座れる狭い箱のような物を取り付けたものです。自転車に乗った人が、ぺたるを踏んで箱の中のお客さんを運ぶタクシーみたいなものです。
隣近所の家々の小さな庭には、ぐみの木や夏みかんや桃の木や金柑それに琵琶の木があって、黙って取っても文句ひとつ言われませんでした。
横丁の家は、ほとんどが木造造りで今のようにサッシの建具やブロック塀もなく隣家の声が聞きとれる程でした。
皆さんは、太平洋戦争の始まった頃、NHKラジオの国民歌謡の「隣組」をご存知でしょうか。又は、戦後になって聞かれた事はありませんか。

「とんとんとんからりと隣組 格子を開ければ顔なじみ
回してちょうだい回覧版 知らせられたりしらせたり。

とんとんとんからりと隣組 あれこれ面倒 味噌 醤油
ご飯の炊き方垣根越し 教えられたり教えたり。

とんとんとんからりと隣組 地震に雷 火事 泥棒
互いに役立ち用心棒 助けられたり助けたり。」

この歌のようなソノママノ近所づきあいでした。 隣人には老若男女を問わず、必ず挨拶をしたものです。昨今では、隣近所の人どころか、個室を持った家族どうしでも家族間の挨拶もしない家庭があるそうですね。
挨拶と言う意味は、相手のこころに強く迫るとあります。

時は、お金も品物も無い時代でしたから、子供らの遊びもそれなりの工夫をして遊んでいました。肥後守(ひごのかみ)と言う小刀一本あったら、それで竹や木切れを削って遊び道具を作りました。
又、横丁の路地は、地べたは土ばかりでしたから5寸釘が1本あればそれを地面に打ちこんで陣取りをしたり、地面に刺しこまれた相手の釘を斜めそばから打ちこんであいての釘を倒して勝負を決めていました。それから、缶蹴り・長崎馬・蹴り馬・パっちん・ラムネン玉とかグーちょき ぱーの遊びもしました。
女の子は、お人形(おにんぎょう)遊びとかお手玉・おはじき・折り紙・もっさん・縄跳び・手鞠つき・石蹴りケンケンパーなどをして遊んでいました。
春吉には、山こそなかったけれど、那珂川が直ぐ近くにあって、黒べこをはいたまま泳ぎに行きました。又、ぼらやさより・はぜ・とんま・どんぽなどの魚釣りをしたり橋の下に1メートルほどのふシを貫いた直径10センチの竹筒を数本水中に沈め、流されないように石のおもしを乗せておくと、翌日にはうなぎが入っているのをを取りに行ったものでした。

供たちの楽しみの一つに、駄菓子屋さんがありました。
親から5銭か10銭をもらって、出かけると必ず数人の子供が集まっていました。
そこで、あれこれと手持ちの小遣い銭とにらめっこしながら、玩具や駄菓子を、
長い時間をかけて物色したものです。店番のおばしゃんは、よっぽど気の長い人ではつとまらなかったと思います。

和20年になると、福岡市内にも敵軍の空襲が始まり、小学生は、童話の赤頭巾ちゃんがかぶっているような頭巾を持って登校しました。
空襲警報のサイレンがなると、防空頭巾をかぶって床や地面に腹バイとなって親指で耳をふさぎ、小指で鼻をおさえ、人差し指と中指で目を押さえて避難の訓練と実際の行動をしていました。

0数年前、渡辺通り1丁目にニューオオタニとサンセルコが同時に建てられ、その近辺のたたずまいや路地裏の小道は少しは変わったものの春吉校区内は、戦災を免れた為に曲がりくねった狭い路地や、天神界隈から東中洲の道路は手引きをしてくれれば自在に歩くことが出来ます。
風の噂によると、春吉で隣近所の大人だった人々は亡くなっていたり、バブルで土地が高騰した時に売り払い今は、駐車場になっていたり、空き地のままだと聞いています。小学校や中学校の友達も60年前後にもなると、離散して消息も分かりません。寂しいですね。
春吉のHPを調べたところ、著名人はさざえさんでおなじみの長谷川町子さんが春吉小学校の先輩でした。又、九州文学の原田種雄氏も春吉に住んでありました。
また、ミス ユ二バース日本代表となった古野弥生さんは、春吉小学校の後輩でした。

まだまだ想いでや書きたいことがありますが、長くなるので止めておきます。
野口福雄
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