学びの輪 晴好夜学

晴好夜学では毎回人生の達人を招いて、達人達の思う“よかまち” ”よかひと”についてお話をうかがいます。

晴好夜学 第4回

岡部定一郎さん

2010年3月26日

会場:建立寺

講師:岡部定一郎さん

福岡市民の祭り振興会 理事、博多仁和加振興会 常任理事、博多古謡那能津会会長などを務める。福岡の文化・芸能に詳しく、その幅広い知識と構成力で、福岡県観光アドバイザー、福岡市イベントアドバイザーとしても活躍。

先輩商人からの教え

 私は以前、春吉は国体道路を中心とする株式会社大広という広告会社におりました。
その時に、「故きを温ね新しきを知る」ということで博多の先輩商人から厳しく教えて頂きました。
人の集まるところには神様仏様が必ずあると神の道、仏の道を勉強するようにということ、天地自然の成り合いは誰にも変えることができない、三百六十五日同じ日はない、四つの季節の変わり目をしっかりと勉強することを言われました。
そして、それを巧みにお客様にご提供する販売計画、宣伝戦略をすることを何も分からない初期の段階から教わりました。

 事実、その通りだろうと思い、そのルーツを調べて神様とはどんなものなのか、仏様の宇宙観とはどうなっているのかなど、哲学も含めていろいろと教えて頂き、世の中のなりそめや人生がたった五十年だということに到達しますと、その間、自分に与えられた出来事であるならば、その出来事に一生懸命に仕えることが仕事だということを覚えました。

 そこで出会った仕事を一生やり遂げることに意味があるのではないかと思いました。

 そういう社会での出会いのなかに「三つの縁がある」という大事なことが分かってきました。

 まずは、我が命を頂いた血縁。

 父母のお陰で生まれているのですから、まず両親の血縁、先祖を大切にするということです。何故、先祖に線香をあげるのかなどの率直な疑問を尋ねながら、人様の注目を集める所作を研究しました。

 次は大地の縁です。求めてはいなくても福岡にいる。

 福岡・博多とはどういう意味なのかを調べてみました。

 答えは意外と簡単なものでした。

 博多は「広く、多くのものが集まる」という意味でした。

 ですから、日本各地に博多という地名が七、八ヶ所あります。「はかた」という同じ意味で字の違うところも二十数ヶ所あります。

 広く、多くのものが集まるのは都です。しかも、生命与奪の権利を持っている都でなければいけません。

 福岡で言えば、太宰府です。京都にも奈良にも博多はあります。

黒田藩ができるまで

 「福岡」という名前は黒田藩がどこから来たのかということです。

 春吉という地名は大地の縁を探そうとしても、海の中でしたからね。博多湾からの二十数キロは全て、砂の上にあります。砂丘の上に出来た街です。ただ一つ、岩盤がありますのは福岡城がある平和台球場辺りだけです。警固断層の岩場ですから、城を造ってもびくともしない地帯です。黒田藩の目も確かですが、その岩盤のお陰で四百年間、一度の城崩れもありませんでした。

 城を造った黒田藩の一族は琵琶湖にあります。織田信長が建てた安土城の少し向こうに木之本町があり、そこに黒田村があります。そこには日本三大観音といわれる立派な観音様があり、黒田村はその守り村でした。元は源氏の佐々木派につながりのある武将の家柄です。

 天下が争乱のように乱れます。その原因が博多でした。元軍が来たからです。

 今でこそ元寇防塁といいますが、そのころは苦役の作品です。糸島半島は石の多いところです。室見の方に行きますと石が少なくなります。ですから、前後だけが石の最中型になります。博多に行きますとさらに石が少なくなり、前だけになります。箱崎に行くとまたさらに石がなくなり、砂に粘土を混ぜた土塀で防塁をつくっています。

 専守防衛でいつ来るか分からない敵に備え、十万人近い西国武将がいました。それが、十年も続くと戦費がなくなり、鎌倉幕府は力を失います。武将達からも文句が出てきます。肥後国の御家人、竹崎季長は元寇防塁の絵詞で伝えました。その「蒙古襲来絵詞」は国宝になっています。箱崎八幡宮の赤鳥居や島巡り、高取の戦いの跡が描いてあります。その頃の博多の街の海岸線が絵姿で残っています。御住吉さんに残っている絵馬です。

 元軍は防塁を見て一度、伊万里湾まで帰ります。その時に台風が来たことは皆さんご存知だと思います。しかし、それで終わらないのが元の世界です。元の史を調べましたところ、その後、五回から六回日本を攻める計画をしています。その時には禅宗は迫害されました。博多には禅宗の人達がいましたから、禅宗の師匠がボートピープルとして、博多に逃れてきます。その時の情報から専守防衛で五、六年も待っていたのです。それにより、時の幕府も天皇家の力を借りることになるのです。北の帝と西の帝が交代で天皇の座につくことになりました。南北朝時代のはじまりです。そして、豊臣秀吉の天下統一まで戦乱の世が続きます。その時にはじめて七町七筋という街づくりをするほど博多の街に土砂が来ています。

 博多の街を太宰府から見ますと、扇型に広がっています。小さな山並みがあり、その前に筑前平野(福岡平野)があります。その平野の付け根の二日市道から朝倉街道に抜ける場所に紫野駅が新しくできました。そこは筑前と筑後の分岐点で、水脈の背分けです。ここを基準として博多湾に十三本の河が流れます。低い山ですから大きな石はなく粘土類、花崗岩の白い砂と混じって土砂がたくさん出てくるところです。元軍来襲の頃、住吉半島と申しまして美野島は島でした。

 鎌倉時代には西公園から冷泉まで元禄袂袖のような港ができます。元は入江でした。その冷泉の津に人魚が打ち上げられます。時の帝が心配し、本物かどうかを調べるために陰陽師を連れてきました。陰陽師は帝に「天下国家安寧の兆しなり」と報告しました。博多の人々は安心し、陰陽師に屋敷を建てます。それが冷泉公の屋敷です。

 外来の人達によって、博多の人達は右往左往しました。

 平清盛が大宰帥(だざいのそつ)=太宰府の長官になります。肥前、豊前、筑前の九州北部三前を庄園にします。それ程の力ですので、平家の大きな力添えは博多にあり、博多の街をつくらなければいけなかったのです。外来の船はそれまでは鴻臚館に入れていましたが、接岸できるように護岸堤防を設けました。その一画が今でも残っています。リバレインです。そこにある鏡天満には袖の港と書いてあります。その横には十渡口と書いてあります。これは、中国大陸の往来便です。

 清盛の息子の平重盛は天台宗ですが、中国の本山に博多商人の宗金を使いにやりました。帰ってきた後、褒美を貰いその年明けに重盛のところに年賀の挨拶に行ったのが博多松囃子の始まりです。治承二年のことです。

 博多は平家の基本的な港としてありましたから、平家は西に来たのです。米処として出会ったのが神埼です。神埼から背振を超えれば一直線に来られます。それで背振に三つの街道をつくったのです。

 博多の街には人や文化が集まり権力も集中し、戦いに明け暮れていました。現在は平和ですが二千年の歴史を見ますと、博多は十回焼かれています。今は十一回目の平和の時です。その歴史の中で豊臣秀吉が九州の統一を果たします。

 当時、太宰府には九州全体をまとめる力がなく北部探題と南探題に分かれており、南探題の島津藩が非常に力をつけていました。そして、大友宗麟の豊前、豊後にちょっかいをかけるようになります。大友宗麟は豊臣秀吉に協力の打診をします。その時に菊池一族、秋月氏が北へ上る道先案内を申し出ました。しかし、中国部の部族は島津を応援します。島津は筑後川の合戦で佐賀藩の龍造寺家を倒します。その力を借りて、大友宗麟系の武将を全滅させます。いよいよ、大友宗麟は豊臣秀吉にSOSを出します。

 豊臣秀吉は四国の長宗我部を倒し、九州に向かい二十万の兵を派遣します。黒田官兵衛、加藤清正勢の中津からの十万、後ほど名島城の城主になります小早川、毛利輝元を中心とする船の十万で博多湾に上陸、この二十万で島津家を挟み撃ちにします。島津家は慌てて、博多を丸焼きにしてしまいます。太宰府も焼いてしまいます。退路を断たれた島津家は、鹿児島の川内まで逃れます。

 豊臣秀吉は島津家に領地安堵を条件に降参するように言います。この九州平定で南北朝、元寇以来の戦乱が治まります。その後、箱崎八幡宮のところで九州の様々な意味合いでの戦争の後始末をすることになります。その時に博多の町づくりを命じられたのが、後に黒田五十二万石の領主になり、博多町割をする黒田官兵衛です。

 この頃にやっと洲が生まれています。那珂川の形により、粘土体系と砂地体系が混じった洲ができます。それが固まり陸地になり、春吉大地が生まれました。そのときの姿を見ようと思うならば、海の中道を見てください。七キロに渡る道ですが、全部砂丘です。沖体積で固まった形です。

博多の町づくり

 江戸時代の文化年間に豊臣秀吉が町割をします。平清盛、重盛の時には港から真っすぐに町をつくっていましたが、その後は井戸を求めて町をつくっています。聖福寺一画を八百坪調査したことがあります。その時に水を求めて様々な井戸をつくっていたことが分かりました。階段が付いて下りられるような大きな井戸です。しかしそれは、飲料水ではありませんでした。博多は博多湾の海の上に砂丘としてありますから、清水は湧きません。その水を味わいたいのであれば、櫛田神社に行けば、味わうことができます。塩っぱくて、鉄分があって、にがりがついて飲めません。飲料水は石堂川を過ぎたところにある松原井戸から博多に配給していました。

 とにかく水を求めて井戸をつくりました。そして、水井戸をつくり、その両側に道をつくりました。税金を多く取られないために間口を小さくしました。ですから、博多の町はうなぎの寝床になっています。

 井戸を引き込んで出会う場所を博多では背戸屋と言います。これが博多七町七筋の分岐点になっています。そして、縦横十文字、南北四条、東西三条の七筋の博多の町ができ、お坊さんの袈裟のパッチワークのような町になりました。

 博多の町はいち早く復興します。博多の三大商人と言われる嶋井宗室、大賀宗九、神屋宗湛が豊臣秀吉から町づくりの許可をもらいます。実行は豊臣秀吉の六奉行です。マスタープランをつくったのは、幕閣参謀である黒田の弟子、久野四兵衛。具体的な実務をするのは野口左助一成などの黒田二十四騎の武将でした。関ヶ原の戦いの後、博多の主になるとは考えてもいない時代です。

 大濠公園と言われる場所は草香江の津であり、深い入江でした。潮が溜まる場所で奥が臭かったので草香江となりました。この地形を活かして福岡本城は造られます。外堀は石堂川、西側は室見川、中堀は油山から流れる樋井川です。樋井川は後の構想のため、鳥飼山から左に曲げられ、今彫った川「今川」になりました。

 守台の近くの三口町は「三つの川口」が本名です。博多湾の上潮、那珂川の溜り、薬院新川の水口をまとめて管理した場所です。クリークが多く、水の計算が巧みな佐賀藩、鍋島藩の技術を使って掘っています。肥前掘り、佐賀掘りといいます。現在、その姿は見えなくなっていますが、天神地下街で一ヶ所だけ見ることができる場所があります。よく見て頂いたら、一段下りた場所があります。それが八番町、九番町です。肥前堀りのモニュメントとしてその場所だけが石壁になっていますので是非、見てみてください。

 赤坂には赤坂山があって、土をはぐると赤い土でした。その土で天守閣、二の丸、三の丸をつくりました。さらに、西公園とお山を繋ぐ場所に簀子で土と水を分ける簀子立てをして、後に黒田藩の城下町となる簀子町をつくりました。そして、水を博多湾の干満に合わせるために脇に黒門堰をつくりました。この大土木事業は四百八年前に七年の歳月を掛けて行われました。この頃はまだ、春吉番町筋はありません。

 黒田は二百七十年間、現在まで十六代の当主がいらっしゃいますが、黒田如水官兵衛は四百年の荒波を平和にした大きな功労者です。ノウハウ、見識、学問を持った人が五十二万三千石の領主となりますから、福岡城にはいろんな細工をしておられます。二代目は黒田忠之公です。黒田騒動を起こした本体の人です。鉄砲隊である二百人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行い、幕府より咎めを受けました。その足軽がいた場所が今の春吉です。

その後、足軽に生活の場として与えた土地が今の地行です。その時の黒田藩の体制は西職人町、東職人町でした。西職人町の武士は身分も低く、禄高も低いので副業として武具をつくっていました。弓矢の矢軸をつくり、東職人町に渡すと毛羽をつけて完品として黒田の倉庫に納めていました。ですから、ここには珍竹塀が残っています。珍竹とは細い竹です。矢軸にちょうどよいものでした。春吉も真似て、同じように珍竹塀をつくりました。ですが、春吉では珍竹を潰して、寄り合わせ火縄にしていました。弓から鉄砲にかわり、生産を上げていました。

渡辺通りの三越の辺りから薬院四十川の間はぬかるみになっていました。そこには「寺町の田んぼ」という意味の法院田という地名がありました。蓮が植えてあり、足軽と寺とで耕作し、生活の糧にしていました。福岡城の南側は馬も入れないようなぬかるみにしていたということです。博多には三つの大きな蓮池があります。千代町に蓮池という地名が残っています。石堂川があり、昔はキャナルシティの方に入っていました。

 福岡城はあわ堀で四方を水により守られた浮城で、博多の商いを守っていました。福岡商工会議所と博多警察署の間を見ていただくと、矢倉門と書いてあります。太宰府に通じるあわ堀の川の前に矢倉がありました。その頃、福岡中学校、福岡高校の辺りを昔は潟洲町といって、大きな湾の入江で干潟になっていました。そこに蓮があり、名産地となっていました。四方を水で守られた城づくりは韓国のチンジュにある難攻不落の城の築城バランスを真似たと言われており、福岡城は幸いか、一回の戦いもありませんでした。

黒田のお殿様が船を浮かべてお茶を飲みながら、穏やかな山筋を見て「福を呼ぶ岡としたい」と福岡と名付けました。そして、その福を呼ぶ岡を守るために四つの神々を置きました。その一つが水鏡天満宮です。福岡城の丑寅の方角です。その他は警固神社、重要文化財になっている多門櫓、隅櫓です。国の重要史跡と呼ばれています。

 春吉の足軽達も戦いがなくなり、長崎警備役になります。長崎の入り口には浮き防波堤のようなものがあり、国の許した外船だけを通していました。一年交代で行われていたという記録があります。

 黒田藩の古文書の中に三藩分限帳があります。三藩とは福岡本藩、東蓮寺藩(直方藩)、秋月藩という黒田藩の御三家です。戦いがなくなり、徳川家康は元和元年(1615年)に武家御法度を制定します。それと共に福岡藩は福岡城以外の六つの城を壊しました。細川の文献によるとその時に本城天守閣も壊されたそう

春吉文化

 二百七十年間、春吉街道は平和な街道になりました。春吉の地名の由来は筑前一宮に位置づけられる住吉神社が「住むに吉の神」となり、信者が集まります。その時に春吉街道は踏み荒らされてしまします。春先には祭りがなく、「春にできる作柄、吉」と春吉になりました。

 春吉街道は住吉街道につながります。住吉橋は「流れ橋」と言われるように、博多と福岡を結ぶ唯一の橋です。この橋は黒田のお殿様が来た時に名島の橋を持ってきてつくられました。しかし、川幅が広かったので、中之島をつくり、橋を両下駄にかえました。その中之島についたのが中洲になります。ですから、中洲は福岡城とほぼ同じ年代に誕生したということになります。また中洲という呼び名には、菜種油の生産で出る「菜かす」という説もあります。その油屋は福太郎めんたいの前身です。春吉は明治前半までは穏やかな町だったろうと思います。

 明治二十二年、博多の町が福岡市になるか博多市になるかという問題がありました。時の明治新政府が有栖川宮殿下を太政官に任じ、明治四年に福岡藩知事になり、博多に来られます。黒田藩十二代目当主黒田長知が藩知事をしていましたが、太政官札の偽造で黒田藩がおとり潰しになったことがきっかけでした。その時に江戸にあった上屋敷が国庫没収になりました。その場所が現在の霞ヶ関です。

 博多は「九州大学が来る、学問の町にする」ということで九州では八番目くらいの都市になってきます。博多の町は鎖国体制から急きょ貿易体制に変更します。その作業の中で、知能的な人達が集まってきました。その時に博多と福岡を結び、勉強する屋敷を造る場所がこの春吉界隈にしかありませんでした。今でも病院などの名残がありますが、学者などが多く集り、近代文化を集約したメインストリートとして一時期、盛り上がりました。これにより、春吉文化が構築されたと言えます。

 春吉子守唄というものがあります。これは、子守り奉公をするような大きな屋敷があったということを推察させます。また、その辺りの大きなエリアを六軒で押さえていたので六軒屋、三軒屋と言います。ひとつの景色としてまとめる形を修景といいますが、春吉の修景は住吉街道から六軒屋、三軒屋を通って博多を望む景色です。非常に風光明媚だったのではないかと思います。

 黒田藩の戦略としてお堀に沿って寺をつくっています。人が集まることができ、石があることから敵に備えられ、食料を潤沢につくることができます。兵を溜める場所は寺ということです。基本的に商都として城構えをしていますから、博多の町を福岡に全部委ねています。黒田藩縁の寺社仏閣を調査していますが、意外と沢山あります。

 今、我々がやっていますのが福岡城の本体の構築です。試算では何百億と掛かります。県知事や市長にも相談していますが、まずは市民がその気にならなければいけません。その作業ではじめたのが福岡城の桜祭りです。

 福岡城には約千本の桜があり、銘木も沢山あります。市民が安心して見られるようにと装置、装備をしています。夜でも見られるようにライトアップもしています。トイレ、ゴミ捨て場所、ガードマンの整備を進めており、市民をあげて福岡城の桜を見ましょうという段取りです。

 西公園の桜は残念ながら寿命と共に落ちてきています。明治二十二年、福岡市が約六百四十本の桜を植えて、百二十年が経ちます。桜の寿命は六十年から八十年で、手当をしなければいけないそうです。今は緑の関係者もいてなんとかなっていますが、枝が伸び放題になり、桜が殺し合っている状況です。その点、福岡城の桜は元気です。ちょうど今から、しだれ桜が綺麗になります。黒田藩のお殿様がしだれ桜が非常に好きだったそうです。

 最後に、いろは四十七文字に春吉の文化をまとめた「春吉かるた」をおつくり頂きたいと思います。公民館活動でよく話すのですが、博多の場合は「祝うて、手一本」です。いろんなことがあっても、全部一本にまとまっていきます。それは手一本を入れるからです。博多は「締める」ではなく「入れる」です。気持ちを入れるということです。ですから、午前四時五十九分に博多の町が一本になります。このようなことを「いろはかるた」でガイドをするとよく分かるようになると思います。

 ふるさとかるたをつくろうというところも増えています。

 いろは唄は仏様に差し上げる報恩の和讃の言葉の一部です。「この花(梅)は」と頭に付きます。

 「この花は色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならん 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず というぞ悲しき」とやります。

 この前後をとり、四十七文字にする知恵が江戸時代にでき、いろはかるたが生まれました。

 全国至るところにいろはかるたはあります。

 福岡県では前原、この前は名島のいろはかるたができました。ふるさとづくりの一環であり、同時に地域文化に関する会話も生まれます。

 是非、いろはかるたをつくってください。なぜなら、この福岡はかるた発祥の地だからです。